野蒜石の蔵、東松島市の石材業


01
01 96 東松島市の石材業、石蔵、野蒜岩材碑(板碑)、宮城県、画像.jpg
野蒜石の蔵と板碑
(宮城県東松島市/2018年9月撮影)













02
02 96 東松島市の石材業、石蔵、野蒜岩材碑(板碑)、宮城県、画像.jpg
野蒜石の蔵、板碑、塀




03
03 94 東松島市の石材業、石蔵、野蒜岩材碑(板碑)、宮城県、画像.jpg
板碑




04
04 94 東松島市の石材業、石蔵、野蒜岩材碑(板碑)、宮城県、画像.jpg
現地、観光案内版




05
05 94 東松島市の石材業、石蔵、野蒜岩材碑(板碑)、宮城県、画像.jpg
現地、観光案内版







【 宮城県東松島市 / 2018年9月 】


このあいだ東松島市の野蒜に行ったとき、「東松島市震災復興伝承館」 (旧野蒜駅舎)のそばに、「東松島市の石材業」という観光案内版の設置された場所ができていたので、ちょっと見てきました。

野蒜石の蔵、塀の一部、板碑がありました。

詳しいことは僕では語れないので(汗)、ここにあった観光案内版の文章をそのままのせておきます。

ぜひ読んでみてください。

僕がパソコン入力した文章です。

誤字脱字があった場合はすみません―――。

東松島市の石材業

1. 石材の性質やその用途

 旧鳴瀬町付近一帯に分布している石材は、第三世紀鮮新世の浮石質凝灰岩、安山岩の角礫を含まないため、容易に切り出し、採掘しやすい軽石です。
 生産される石材は5種類(野蒜石、松島石、青葉石、潜ヶ浦石、川下石)に分布され、その中でも生産額が最も多いのは野蒜石で、古くから郷土の石材として親しまれ、「土台石」「倉庫」「石塀」などに、広く利用されてきました。

2. 本市における石材業の歴史

 岩材の始掘は、江戸時代と推定されると野蒜石材碑(同敷地)にも記されています。
 明治38年ごろには、東名運河を利用して、塩竈まで運び、県内をはじめ三陸一帯へ出荷され、かまど、倉庫に利用されてきました。
 大正10年には、需要が増え、販路拡大のため、会社が創立されました。高価な建材用レンガの代用品として、北海道から福井県にまでその名が知られました。
 昭和40年代の前半までは年々需要が伸び、石材業も盛んでしたが、昭和48年ごろより軽石としての欠点である耐久性の問題が顕著化しました。さらに、追い打ちをかかるように、貿易自由化による高級多様な石材が輸入されるなどの背景を受け、本誌の石材業は徐々に衰退していきました。現在では、採掘量は激減しましたが、石材採掘は続けられています。
 平成23年3月11日に発生し、未曽有の被害をもたらした東日本大震災による大津波は、この集落全てを飲み込み多くのものを奪いましたが、この蔵は唯一その形をはっきりと残し、震災前の人々の暮らしの一片を思い起こさせます。
(現地、観光案内板より)


1990年代中頃、この辺りは軽石の石材業が非常に盛んだったようですね。

野蒜は2011年3月11日発生の東日本大震災で、津波により壊滅した地域です。

野蒜石の蔵、塀の一部、板碑はいつからここにあるんだろうと思い、ネットで調べたけどわかりませんでした。

グーグルマップのストリートビューを見たら、震災から4か月後の2011年7月に撮影されたストリートビューには野蒜石の蔵だけが写っていて、他はありませんでした。

たぶんですけど、野蒜石の蔵は震災前からここにあって、塀の一部と板碑は、あとから設置したり、移設されたりしたものだろうと思います。
(・・・確認はしておりません。)

塀の一部は真新しく見えました。

板碑は古いものに見え、昭和28年と刻まれています。

現地には蔵の石材が野蒜石だとは書いてありませんでしたが、ネットで調べているとき、「市報ひがしまつしま」というのに“野蒜石の蔵”という名前で書いてあったので、このブログでもそうしています。

野蒜石の蔵は、野蒜の歴史を伝えるだいじな遺産ですね。








場所: 宮城県東松島市野蒜北余景 野蒜 / 見物料: 無料(自由) / 駐車場: あり(東松島市震災復興伝承館駐車場)

参考地図: 野蒜石の蔵(東松島市震災復興伝承館(旧野蒜駅跡)のそば)



この記事へのコメント