傾城森と吊り橋、七ヶ宿町


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02 96 逢瀬橋、白石川、宮城県白石市、画像、Tanji.jpg
「逢瀬橋」と傾城森
(宮城県白石市)
Shichikasyuku-machi












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03 96 逢瀬橋、白石川、宮城県白石市、画像、Tanji.jpg「逢瀬橋」から見た白石川






【 七ヶ宿町 / 2019年5月 】


このあいだ車で七ヶ宿町(しちかしゅくまち)に車で行ったとき、ひさしぶりに「逢瀬橋」に立ち寄りました。

(たぶん「おうせばし」と読むんだと思いますが、ちゃんと確認ができなかったので、ふりがなをつけませんでした。)

近くを通る国道113号はたまに車で通るけど、こうやって「逢瀬橋」の風景をじっくり眺めたのは十数年ぶりです。

赤い吊り橋、そのさきには尖った小山、そんな印象的な風景の場所です。

下を流れるのは白石川(しろいしがわ)。

このとき、この尖った小山に向かってすたすたと歩いて行く、登山のかっこうをした人の姿がありました。

「傾城森」という山のようですが、―――もしかしたら山頂まで登れるのかな?

下から見たかんじだと、とても登れそうな山には見えないんですけどね。






癒しと学習の森 ~傾城森と里山林~

 傾城森の山頂は標高394.5mであり、県立自然公園普通地域に指定されています。コナラを主体にクリ、カスミザクラ、マンサクなどが混じる林は雑木林または里山林と呼ばれていて、この地域の自然植生であり、懐かしいふるさとの原風景でもあります。雑木林は万葉時代から「はなその森」として里山の生活に深くかかわってきた森林で、宮城県の生んだ歌人熊谷武雄は
    手長野の木々はあれどもたらちねの
    はなその森は拠るにしたしき
と謡っています。
 また、傾城森から西方約1.5kmの地点には、間伐などの手入れが行き届いたアカマツの植林地があります。マツクイムシ被害の影響でアカマツの見事な林が残っていることは貴重であり、遺伝子保存の意味でも重要な林です。
 周辺にはニホンザルやコウモリの仲間などのほ乳類、キビタキやウソなどの森林性の小鳥が棲んでいます。
(現地案内板より)


傾城森(けいせいもり)と山伏森(やまぶしもり)

 横川と白石川の合流するこの地に女性の乳房を思わせる二つの岩山。北峰が「山伏森」(390メートル)南峰を「傾城森」(446メートル)といい、総称して傾城森と呼んでいます。この二つの岩山には哀れな物語が伝えられています。

「今からおよそ300年前の話です。
 冬のある日の夕暮れ時、修験者(しゅげんじゃ)と気品のある美女がこの辺りにたどり着きました。男は仏道修行中の山伏、女は傾城の誉れ高い京都祇園(ぎおん)の名妓(めいぎ)。楼主に抱えられて自由のない芸妓(げいぎ)と、厳しい掟に縛られた山伏との恋は世間に認められるはずもなく、二人は手を取って京都を逃げ出し長旅の末この地にたどり着いたのです。
 二人はさっそく草庵(そうあん)を結んで住み、人目を忍びながらも楽しい日々を送りました。 しかし、それもつかの間のこと。女は思い病気にかかってしまいました。修験者は、病気が回復するように一心に祈り、薬を求め一生懸命看病しました。そのかいあってか、女は少しずつ快方に向かいました。
 ところが、所持金も乏しくなってきて、生活に困るようになったので、二人は将来を危ぶみ世を儚(はかな)んで、山下の地獄淵(じごくぶち)に身を投じて死んでしまったのです。
 一方京都からは、かつて名妓に仕えたことのある下女(げじょ)が、この二人を追いかけてきましたが、二人はすでに死んでしまっていたのでした。下女は、たいへん悲しみ、あと追って東方の山下(現在の下女森)で自らの命を絶ってしまったのでした。」

 この二つの岩山は、江戸時代から旅の人への観光説明の材料となっていて、富田伊之(とみたこれゆき)著の『奥州紀行』安永六年(1796)にもこの物語の概要が記されています。
(現地案内板より)


賽(さい)の河原

 以前この辺りには地蔵が建てられ、小石が積み重ねられていました。かつては関の村はずれで寂しい処であったため、人が死ぬとこの河原を通って行くといわれ、その足跡が残されていると言われました。そのときにこの世で悲しい思いをした者は泣き、幸せだった者は笑うといい、夜釣りに行ってその声を聞くこともあったそうです。また、次のような話も伝えられています。

「昔、秋田に子供を次々と亡くした殿様がいました。家臣の筆頭である武士が江戸に向かう途中、たまたこの河原に差し掛かると、三、四人の子供が河原を走って来て近寄り、袂にすがりついて道中無事であるようにと言いました。そこでその武士は後に家来を差し向けて賽の河原に地蔵を建て、その子供たちを供養しました。地蔵の衣に子供がすがった像が彫ってあるのはそのためです。」

 安永風土記(あんえいふどき)には、明和二年(1765)に関泉寺(かんせんじ)住職が地蔵を建てたと記されていますが、現在では確認できません。しかし、いつの頃に建てられたかは不明ですが、国道113号線から横川・長老方面に分岐する県道の交差点付近に、賽の河原から子供を救いあげる姿が刻まれている「線刻(せんこく)地蔵」が建っています。
(現地案内板より)









この記事へのコメント

このクルマクライマックス
2019年05月19日 22:16
登れます。5~6年前だと思いますが、当時私は軽装で水も持たずに登り、山頂のベンチでしばらく横になってしまいました。
結構登りが急だった記憶がありますよ。

しかし、案内板のお話は、悲しいお話ですねえ~。
Tanji
2019年05月21日 23:09
>このクルマクライマックスさん

ここ登れるんですね、、、
登れるとしても見るからにたいへんそうな山ですよね。
まあ、僕は登ることはないと思います(汗)。

こういった山のいわれというのは、興味深くておもしろいですよね。